本日の収穫(2944文字)
色々個別のですね 問題とか
色んなことについて整理をしたり
ブログで話したりしてますとですね
その内それが だんだんだんだん
自分の頭の中で整理されて
まとまってきたりですね
更には昔からの疑問として残ってるものが
頭の中で顕在化してくるんですね
それで科学的哲学的論考っていうのを
したくなるわけですね
私は哲学者じゃないので そうですね
今からもう四十年ぐらい前になりますが
哲学的な論考をするのは遠慮してたんですね
そしたらある哲学者
これ非常に有名な哲学者がですね
武田先生遠慮することはないんですよと
実は哲学の方もですね 科学がよくわからないので
哲学的なことをやろうとしても
限界があるんですと
従って科学者の方から積極的に哲学的論考をですね
してくださいという話がありまして
教えていただきましてですね
それで最初に書いたのが 書いた論文が
リサイクルの哲学っていう本だったんですね
リサイクルというものを科学的な現象を
哲学的な論考をするっていうことなんですが
これが結構ヒットしまして その後
それに関係する書籍を書いてくれって言われたり
雑誌に投稿したり
インタビューがあったり色々しました
そういうこともあって
ああー なるほど先生の言われる通りだなー
っていう風に思ったことがありますので
このブログでもですね
時々 科学的哲学的論考というものをですね
やってみようかなと
またこれは昔やったことがあるんですが
復活しようかなという風に思っております
今日の内容はですね
軍事力の強い民族は
支配的であり非文化的であるかと
これは私の非常に強い疑問の一つなんですね
具体的にはヨーロッパとか
中国のことを言ってるんですけど
ヨーロッパとか中国もかつては非常に
清の時代とか
元の時代は 元はモンゴルですけど
強かったわけですね
そういう民族が支配的であるかっていうと
どうも支配的みたいな感じなんですね
軍事力が強いので とかく他の民族を圧迫して
植民地にしたり領土にしたりしがちなんですね
第二次世界大戦の前でしたら
ヨーロッパの諸国が
アジア・アフリカの諸国を
ほとんど植民地にしてたと
軍事力の強いヨーロッパが
アジア・アフリカを支配してたということなので
非常に支配的なんですね
ところが これは
非文化的であるかっていうことが問題なんですが
ヨーロッパはアジア・アフリカを
支配していたが 故にですね
余剰の富を生じまして その余剰の富で
哲学では例えばヘーゲル カント
それから音楽ではベートーヴェン モーツァルト
絵画では 色んな
もう驚く色んな人が出てきましたね
ということで文学もそうですね
そうしますと
軍事力が強い民族が支配的であるが
文化的であるということになるかなと
最初はそう思っておりました
ショパンが出てきたのは
ショパンが宮廷で遊んでたからであり
遊んでたっていうと
ちょっとまた語弊があるんですが
一応基本的には遊んでたからなんですね
ギリシャ 古代ギリシャがそうですね
5パーセントが スパルタなんかは
一応6.7パーセントとかいう研究がありますが
一般市民で遊んでて暮らせるっていうんですかね
そして約90パーセントが
奴隷的な状況で生産に勤しんでいる
その90パーセントの
奴隷的生産で上がってくるものを
その市民が食べたり
着物を着たりしてそれで哲学をやる
そうするとソクラテス
プラトンそういうのが出てくると
そうすると軍事力が強いということは支配的であり
かつ文化的なのかという風に思ってたんですが
どうもですね そのギリシャなり
ヨーロッパなりの文化っていうのはですね
どうもこれは本当の文化ではないんじゃないかと
最近思っているわけなんですよ
っていうのは
そこの文化っていうのはですね 極めて
昔の言葉で言えばブルジョア的っていうかですね
支配層的文化ではないが
例えばヨーロッパ文学にしても
ヨーロッパ絵画なんかがいいですかね
文学とか音楽っていうのは抽象的ですので
ちょっと判断が分かれるんですが
絵画は直接的ですね
ヨーロッパ絵画の九割は やはり金持ちを
描いたもの支配層を描いたものが多いんですね
従って支配層
それから私テレビなんかを見てますと
この頃の日本のテレビは 特にそうなんですが
韓国ドラマなんかも含めて
中国のドラマなんか含めてですけど
ほとんどが支配層の生活
支配層の物語が多いんですね
別にこれは非難するんじゃなくて
事実をこう哲学的に考えてるわけですが
例えば NHKの
大河ドラマっていうのを見ますとね
ほとんど主人公は徳川の将軍だったり
今度は鎌倉の十三人ですから
これも支配層ですね
そういう風に こう常に前田だったり
島津だったりですね 支配層の文化
だからこれは本当の文化なのかっていうことが
非常に最近疑問なんですね 私は
やはり90パーセントの文化が 文化ではないか
人間っていうのは
一体どういうものかっていうことを
支配層のなか
支配層の物語から本当に探ることができるのか
っていう風に思っております
それは例えばお釈迦様も
王子という立場を捨てて哲学を作りましたし
イエス様も完全な庶民の中で
宗教を作っておりますね
本当の文化っていうのが
お釈迦様でありイエス様であるんであれば
やはり我々の文化というのは
庶民的であるっていうか
人間であるということが中心ではないかと
いう風に思ったりするわけですね
ところが もう一個の問題はですね
日本の文化人に非常に強く現れるんですが
軍事力の強い民族を
圧迫された民族つまりアジア
ヨーロッパ人をなぜアジア人は尊敬するのかと
いう問題がありますね
日本では はっきりとそういう傾向があります
例えば平等を主張する
それから平和運動をしている文化人がですね
イギリスを尊敬している場合が多いんですけども
イギリスってのはご存知の通り現在でも
貴族社会 公爵伯爵ありましてね
極めて差別的であります
もちろん旧植民地との間の関係もまだあります
そのイギリス そういうものを認めている
イギリスを尊敬する心っていうのは
なぜ残っているのか
っていうのは非常に疑問ですね
ただここに 化学的哲学的論考と書いたように
科学的に見ればある程度
納得性がありますっていうのは
人間以外の大脳皮質が発達してない動物はですね
力の強いものを尊敬します
私がブログの中で書いてるように
オランウータンを抱く時に
オランウータンが握手を求めてくるので
相手よりかは強い力で手を握らないと
後は馬鹿にすると
これはまぁ 動物に原則的に存在しますね
動物の社会は正義もありません
全て軍事力の強い
つまり力の強い動物が
力の弱い動物を圧倒的に支配しますので
それは一つの動物社会の文化なわけですね
そういう生物学的な状態を見ると
人間の大脳皮質支配っていうのは
論理的であり合理的であり
かつ人間的であるという風に見られます
特にキリスト教では
人間と動物と峻別しておりますから
人間の論考論旨そういったものはですね
感情っていうものはですね
動物的な暴力的な領域から
脱してるはずなんですね
しかし脱してない 常にいい生活
社会を騙してそして自分だけが支配層に立ち
かつ軍事力を強くして
多民族を植民地化に置き そこの生産で
自分はゆっくりとした生活をするということが
ある意味で現在の人間では
まだ理想的になっていると
いうことが考えられますね
まぁ暴力的であり
一元的であり支配的である
それに対して日本文化
旧来の日本文化のように調和的であり
謙虚な文化が
馬鹿にされているという風に考えるわけです
2022年2月4日 (ヒバリクラブ)
#武田邦彦 先生
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