本日の収穫(3567文字)
私はですね アドバイザーをやっております
ある大きな自治体がありましてね
そこで 今から五年ぐらい前でしょうか
その市のですね 基本的な高齢者対策を作ったので
ちょっと来てですね 考えを言ってくれと
コメント言ってくれっていう話がありまして
市役所に行きました
その高齢者対策は 非常にしっかりしておりましてね
大体四十ちょっと過ぎぐらいの
四十から五十代のですね 課長さんか部長さんとみられる方が
非常に系統的にですね 一時間ほど
その市の今後の高齢者の対策を お話になりました
それで そこの席でですね
武田先生コメントをお願いします
と言われたんで一言いったんですね
この市では 高齢者というのは市民ではないんですかと
こう聞いたわけですね それはどうしてかと言うと
日本人はどうしても従来の概念を そのまま良くすると
それを良くするっていうのは
割合と良くて あの上手くてですね
この場合も高齢者対策という名前に 縛られたんでしょうね
現役の方 例えば
二十歳から六十歳の四十年間の人が どうやったら
六十歳から年の上の高齢者に
対策を取るかって 対策なんですね
ですから まぁ例えば高齢者をいかに閉じ込めておくかとか
高齢者が例えば認知症になったら
それをどうするかっていう その対策なんですね
高齢者側には立ってないんですよ
その人も四十から五十ぐらいの人ですから
当然自分が六十以上になった時のことを
考えてるわけじゃないんですね
この問題の難しさはですね 実はその
ここで人生設計という風に出したんですが
この難しさはですね
子供は子供のこと
自分は自分のことには興味あるんですよ
若い女性は若い女性のこと
勤め人は勤め人のこと
主婦は主婦のこと
老人は老人のことっていう風になっちゃうんですね
ところがですね 私はこの参政党とか
そういうところで活動するのにですね
その主たる中心を絡合
糸偏に おのおのという各という字ですね
字を書いて合うという字を書くんですね
絡合というのを掲げているわけですよ
これは個人の幸せは 個人の幸せでできるものではないと
それは当たり前のことですね
よく昔ですね 学生がですね
私は工学部の物理系ですから
大体男の学生ばかりで しかも人間関係うまくいかないんですね
それで ぶりぶり怒ったりしてるんですよ
あいつがいけないとか こいつがいけないとか言ってですね
大学がいけないとか言ってですね
そうかと 君そんなに社会に不満があるんだったら
野原で一人で生活したらどうだと こういうわけですよ
ちょっとしばらく経って その学生にね
どうだい この前言ったのはったら
いや先生やっぱり寂しくて 野原で一人で生活できませんよと
それからまたですね ご飯も作んなきゃなんないし
一人で畑も耕さなきゃなんないし
野獣も捕らなきゃなんないし
ちょっとそれできませんと そうだろうと
つまり人間っていうのは 一人で生活できないんだよと
これが絡合というものなんですね
これはですね いつ頃その生物史上発生したかって
なかなか難しいんですよ
単細胞生物ができて 真核細胞ができて
多細胞生物になってっていう風に だんだんこう行くんですが
多細胞生物っていうのが元々ですね
細胞間の連絡をしながらしか 生きていけないんですね
人間あのー こういう生物は
多細胞生物 細胞がいっぱいないとですね
ある人は目で ある細胞は目になり
ある細胞は足の裏になり
ある細胞は膝になるということで
まぁ生物というのは大きくは繁栄した
ところが繁栄して しばらくしてみるとですね
いや実はそうじゃないんだと
一つの生物を多細胞で作っても 例えば人間ですね
人間やっぱり一人で生活できない
もしくは一人で生活する方が
ずっと貧弱だと言ってもいいですね
不幸だと言ってもいいんですね
それで随分昔からですね 群れをなすようになりまして
人間ばかりじゃないですね それは馬でも群れですし
ボルボックスっていうのが一番 その原始的なんですけど
それも群れなんですね
だから多細胞生物 例えば人間ですと
六十兆個の細胞って 言われるんですけども
六十兆個の細胞がさらに例えば日本ですと
一億五千万人が一緒になって 日本国というのを形成する
日本国が繁栄してないと そこに住んでいる日本人は
幸福にならないっていうことが
もう今から まぁ五万年ぐらい前に
気が付いてるんですよ 人間もですね
ですから利己 自分を利する利己がいいのか
利他 他人がいいのかとかですね
性善なのか性悪なのか なんていうのは
いつも議論になるのは この問題なんですね
やっぱり人間の基本的な矛盾はですね
利己と利他が共存している
個人と絡合が共存してる
だけども 人間の長い歴史を考えるとですね
他人が幸福になったほうが 自分が幸福になると
いうことは もう実証されております
これはもう本当に 実証されております
私は歴史が好きなんですが 歴史を見ますと
個人が幸福になるということを
追及したとこはみんな駄目になって
みんなが幸福の方が 自分が幸福だっていう方が
幸福な人生を送ってますね
その点から 私は絡合というのを
表に掲げておるわけでありますが
その戦後ですね自由民主党が力を発揮した
1960年 1957年なんですけど正式に言いますと
日本人の平均寿命が やっと五十を超えました
つまり五十歳までの人生が 全てだったんですね
ですからゼロ歳から五十歳までに どうやって生きていくか
十歳までは成長し 十歳から二十歳までは
勉強したりスポーツしたりして能力を高め
二十歳で社会に出て 一生懸命若い頃働き
やがて結婚し 子供を持ち家を持ち
そして五十歳の中盤になるとですね
大体そういった 自分の人生が終わって五十で死ぬと
こういう人生だったわけですよ
いや今の人はそんなこと聞いたら嘘だって思うけど
日本人の平均寿命は 五十歳を超えたのは
1947年ですからねー
ですから そういうことになったんですよ
ところが今は百歳ですね
おととし 五十歳を超えた人の平均寿命が
五十歳になりまして 五十年になりましたので
現在 まぁまぁ生きている人のほとんどが
百歳の人生を送ることになります
現在まだ 男女平均して八十五歳ぐらいですから
百歳っていうと
俺はそんなに生きれるのかなと思いますけれども
私が生まれた頃は まだ平均寿命は四十代でしたからね
そんな五十歳以上に
人生になるなんて思ってなかったんですよ
それは私ばかりでなくて文学者 一番文学者がねー
頑張ってもらわなきゃいけないんですが
文学の人が 第二の人生
五十歳から百歳の人生を色々描いてくれないと
我々の頭の中に 浮かばないんですよ
私達がですね 十歳まではどう 二十歳まではどう
二十代は若くて 結婚して子供持って
三十代は 一生懸命子供を育てて家を持って
四十代はそれを完成していくという
人生のイメージがあるのは
やっぱり色々な文学があるからなんですね
もちろん哲学もありますけど
それから実例もありますけどね
やはり文学が先行するんですよ ですけども
第二の人生 五十歳から百歳っていうとですね
まず夫婦は一体どうするのかと
もちろんセックスはもうありませんよね
ない あってもまぁ子供を産むための
セックスじゃないんでちょっと違いますよね
子供を産むということもない
育てるということも ほとんどない
それで そうかといって
仕事もまぁ定年になっちゃったらない
定年なんていう概念はですね
平均寿命が 五十歳以下の時の概念なんですよ
だから第二の人生 酷い人は
もう七十歳以上は免許証は要らないなんて言ってますけど
七十歳以上だって同じ人生なんですよね
同じ人生なんです
私は四十五歳の時に それが気が付いたんですけど
四十五歳の時に
老婆の一時間という随筆を書きましてね
その随筆を書いている時に
そのこのー 私が書いた随筆に出てくる老婆はですね
頭もはっきりしている 腰も膝も悪くない
だけども もう何もすることがなくて
台所は嫁がやってくれる 掃除もやってくれる
ただ縁側に座っている
だけども そんな老婆はですね
まだやっぱり 自分の人生を送りたいんですよ
じゃあその老婆から
人生を奪ってしまった人は誰かって言うと
みんなその老婆に好意を持ってる人
お母さん 台所は私がやるから休んでくださいね
っていう嫁さんとか そういう人なんですよね
決して悪意じゃないんですよ
だけども人間が 五十歳から百歳までの五十年間を
ゼロ歳から五十歳までの 五十年間と
同じように充実して生きる
ということは大切ですよね もちろん
それには やはり個人の力だけじゃ及ばないです
やっぱり文学があり
政治体制があり 周りがありですね
今みたいに周りがですね
老人は何だって言ったら駄目なんです
だけども若い人にも 若い人の意見がありますね
今みたいに金持ちの老人を
貧乏な若者が年金で支えるみたいなことがあると
やっぱり歪んできて ぎくしゃくするんですよね
ここのところを やはり政治で解決していかなきゃいけない
まずは基本的には
政治で解決していかなきゃいけないということで
まずは第一の人生と第二の人生を
我々が有意義に送るために
どういう政治が必要かということをですね
次にお話をしたいという風に思います
2022年1月15日 (ヒバリクラブ)
#武田邦彦
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