2022/03/11

【炉端の話】イエス様の衝撃 (武田邦彦先生)



本日の収穫(3309文字) 

もちろん一人の人生ですから
色々なことがあるわけですね
よく言うように人生を顧みると
走馬灯のように流れると こんな感じですね
その中で幾つか私の人生にも
強い印象の残ってることがあるんですね
よく話すのは三十二歳の時の
もう私のなんか自覚というか
悟りというには
ちょっとまだ不十分だったんですが
そういうものもあったし
今日はこの前ちょっと
何か話してたか 聖書を読んでる時だか
イエス様の聖書をですね
実はイエス様の聖書っていうのは
もちろん非常に有名な書物ですから
小さい頃から知ってはいたんですけど
私はキリスト教じゃないって思ってたんですね
僕はキリスト教じゃないと
だからキリスト教の書物を読んでもなぁーと
こういう感じで人事で読んでたわけですね
ところがだんだんこう年も取ってきて
自分がキリスト教であるとかないとかいう前に
イエス様という人のことを知りたいと
思うようになってきたわけですね
これはなかなか
年を取るってのはいいことで
年の若い時は
何か変なこだわりがあるんですよ
あれはキリスト教じゃないかとか
あの人は右じゃないかとか
左じゃないかとかですね
そういう全然関係ないのに
その人にレッテルを張るわけですね
だからイエス様は
今になってはキリスト教の
なんていうか神様っていうか
人間っていうか ちょっと中間なんですが
そういう風にこういわば
いい意味でレッテルを貼られてるわけですが
イエス様という人間自体はお生まれになって
三十ちょっと前で何か悟ったんでしょうね
それで人々にある人生の生き方
この社会の理解の仕方というのをお話になり
それがあまりに素晴らしかったんで
みんなに教えられてんだなって
いう感じがしたんでしょうけど
イエス様自体は教えようと思っているのか
それともご自分がそう思ってるのかってのは
分かりませんね
それで非常に強い衝撃を
受けたわけですよ 私はですね
私は今でもキリスト教の洗礼を受けてないんで
キリスト教者ではないんですが
イエス様の信者っていうのかな
キリスト教ではないが
イエス様の崇拝者っていう感じですね
お釈迦様はですね
東洋の人であるからということで理解しやすいのか
もちろんある王様の家に生まれて
教育も十分に受けて結婚もして
お母さんが早く亡くなったっていう点で
苦労もされて
そして青年期から少しになると今度は
人生に悩み放浪の旅に出るというわけですから
割合と人間的ですよね
それでお釈迦様は特別に長く生きられたんですが
今のネパールあたりのところの
王家だったわけですが
八十歳の近くになって本当の意味で
悟りというか知恵ですね
人生を送るこの宇宙やこの人っていうのは
どういうものかっていうことが心底おわかりになり
これは私の言い方でいえば
大脳皮質を抑制して伝統脳と大脳皮質を
調和させてものを考えるっていう
そういう風に私は説明しているんですが
そういう状態になる
もちろんお釈迦様自身は神様とか
宗教っていうのはほとんど言っておられません
そういう意味のことは
言っておられますけどね
仏教っていうのができたのは
お釈迦様とほぼ関係のない形でできている
ところがですね イエス様の方は
とても信じられない人生なんですよね
当時何もない 文化的なことが何もない
別に本があったわけじゃない
古典を読むわけじゃない
そういうその昔のパレスチナあたりの
普通のっていうか
貧困だったかどうか分かりませんが
普通の大工さんの子供に生まれて
そして学校行ったとか
学校でどういう成績だったなんていうのは
僕は知らないんですね
多分教育制度も整ってなかったんで
自分で勉強されたんでしょうね
そして二十七ぐらいでなんか教え
教えというか人間が今
名前を付けている教えをされた
ということですから もうそれでそのー
イエス様のお話になったことを記録したと言われる
マタイ伝を始めとした新約聖書を
私がある時に読んだらですね
わ!この人は この人っていうかイエス様を
人か神からよく分からない人なんですが
この人は素晴らしい人だなーって
いうように思いましたね
さすが2000年の長きにわたって
多くの人がイエス様の言動って言いますかね
話したこと行動に感激し影響を受け
そして救われたと
いうだけのことはあって
もう飛び抜けてるんですよ
当時のギリシャ哲学も優れてたけど
ギリシャ哲学なんていうのは
ほとんどギリシャのアテネならアテネの人たちを
奴隷に使ってその人たちを働かせて
それでその上前で生活して
面倒くさい理屈をこねていただけですからね
それから見れば 中にはヒポクラテスみたいな
偉いお医者さんもいたわけですが
それに比べれば
もう全然片田舎も片田舎
超片田舎で二十七歳にして
何でこんな知恵があるのかなと
これはもうほとんど人間業じゃないなと
キリスト教の人はですね
何を信じなきゃいけないかと
いけないかということもないけど
何を信じておられるかっていうと
イエス様の復活ですよね
十字架にかけられて
亡くなった後 復活したと
この復活イエスの復活というのを
信じるかどうかで今はどうも
キリスト教の人かキリスト教じゃない人かの
区分をしているようなんですけども
私は随分教会にも行くタイプですし
聖書も読むタイプなんですが
イエス様の本当の偉さは
実は復活したというよりか むしろ
復活を信じられない人もいますからね
そのイエス様のものすごく深い愛情ですよ
愛情 愛ですね
キリスト教はよく愛って言いますけど
本当にそうでそれは私はですね こんなこと
言ったらもう袋叩きに遭うかもしれないですが
モーゼだとか色んな人が
キリスト教には登場するんですね
しかしこのイエス様の愛情
人間に対する愛の深さっていうのはですね
もう桁が何桁も違うんですよ
それはもう復活っていうそのね
三年ぐらい布教された後の事件もそうですが
一番最初の頃に行っている
山上の垂訓っていう有名な山の上かなんかで
皆さんにお話をされている内容なんかですね
もうとても人間業とは
思えないっていうんですかね
自己に対する今でいう利己心ですね
利己心ほとんどない
もうとにかく今の日本なんか
もう利己ばっかで行ってますけどね
なんか伝染病が流行ってもこの機会に
病院で儲かるようにするにはなんて
考える医者がいるぐらいですからね
学校の先生も僕もそうですが
もう本当にもう利己ばかりなんですよ
ところがイエス様っていうのは
利己がないっていってもいいんですよね
ないんですよ 見当たらないですね
他人に対して非常に深い
もう本当に深い愛情があるんですね
それは色んな病気の方を治されたという
奇跡なんかが普通は言われますが
私は例えば
広場で石に打たれている女の人をですね
この中でこの女に石を打てるぐらい立派な人は
石を投げてもいいよと言ったら
誰も石を投げられなくなって去ったと
これなんかはもう余程人間に対して
深い愛情がないと思い浮かばないことですよね
それを我々はそうだなーと思うわけですね
だからキリスト教を深く信じている人も
非常に結構なんですよっていうのは
我々が一生かけても到達できないような
他人に対する深い愛情というものに
接するというだけでですね
人間っていうのはやっぱりこう立派になるんで
聖書をお読みになるのは全くお勧めなんですが
しかしやっぱりそこに
人間の手が入りますとね
なんかきらびやかに飾った偉そうな格好してる
枢機卿とか神父さんとかおられるしですね
やっぱり教会は今でもいつもドアが開いてて
どんな方でも入れるわけですね
だけどもちろんそうですが
イエス様のような利己が全くない利他だけと
人間に対して本当に深い愛情を
持ってるっていう人がパレスチナの田舎で生まれて
何にも教育がないのにそうなるって考えられないので
イエス様はまさか神様じゃないと思うけど
もしかすると神様なのかなーと思ったりしますね
いずれにしても私の人生には
非常に大きな衝撃がありましたね
ああ!こんなに深い愛情をもった
人というのが人かどうか分かりませんが
この世に存在するんだなー
その後 色んな方の本を読んだり
色々行状を聞いたりしても
世界中でやはり今まで歴史に残る人で
イエス様のような自分を捨てて他人に深い愛情
それが十字架に現れてるんですが
深い愛情を持った人はいない
それはキリスト教徒であれ
誰であれ感じることができる
これが僕の人生における
イエス様の衝撃だったということなんですね

2022年2月23日

#武田邦彦 先生

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