2021/11/27

「幸福」の「構造」2: 幸福の初歩:労働をどう考えるか? 勤労の義務の理解 最低の労働:日本と外国 人間としての特性を知る (武田邦彦)



幸福に構造があるということは この前お話をいたしまして 幸福の問題 例えば人間関係とか 夫婦の事とかで 親子とかですね 仕事の事とか そういう事で悩んでる方のほとんどがですね 幸福というものを一回も勉強したことないと もしくはですね ネットとか それから まぁ簡単なノウハウ本でですね こういうのはこう考えたらいいって言った 主に心理学的もしくは宗教的なですね 事を知るということが精々なんですね ところが幸福に至る 人間が幸福に至るのはですね 構造その幸福というもの  言ってみれば幸福学って言うんですかね 幸福の学問っていうのは学ばないとですね やっぱりその場その場 限りになりまして 今の職場の人間関係は これで解決したけども 次また似たような問題が起きても 応用が効かないわけですね ですから幸福っていうのは 構造をちゃんと学問的に知る必要がある やっぱり学問的に知るんですから ちょっと面倒くさいことは面倒くさいんですが やはりあのー まぁ学校教育でやりませんからね 成人教育っていうか 大人の教育っていうか 社会人教育というか そういうところで学ぶのに 適しているんじゃないかと思うんですね それのいろんなその幸福のしょうほうには いろいろ考えることがあるんですが その一つにですね 日本と外国とでものすごく違うんですよ これがまぁ一つは誤解の基になっておりまして 解決しない基になってますねー というのは 日本人がある問題で悩んで それを その外国の幸福論を読んじゃうとですね 全く見当はずれの所 行っちゃうんですね なんでそうかって言ったら 日本だけが幸福に関する考え方 日常に対する考え方 夫婦に対する考え方が全く違うんですよね ですから 結局のところ外国の本に一回左右されると もう 幸福にはなれないっていう感じがするんですね その一番 まぁいろんなものがあるんですけども その一つに 勤労というものに対する考え方なんですね これがもう全く違うんですよ これをお聴きになってる方で キリスト教の原罪というのがありますね 罪 人間はもともと罪がある だからその罪をその解消するために 人間に神様が 人間に苦痛を与えた その苦痛は労働なんだ っていう仕事をすることなんだ だから仕事をするっていうのは苦痛なんだ できればやらないほうがいいんだ っていうのが キリスト教ばかりじゃなくて 中国 中央アジア 中東 ヨーロッパ アメリカ 全部そうなんですよ もちろん アメリカヨーロッパの影響を そのまま受けている南アメリカもそうですね ですから ところが日本は全く逆 もう正反対なんですね 日本はどう考えてるかって言ったら 今日ご飯を食べる 味噌汁を飲む 魚を食べて お新香を食べるという風にしますね それからもちろん洋服も着る 今では まぁ電車に乗るとか 自動車に乗るとか 冷暖房のエアコンを使うとかいう事もありますよね これはほとんどのものが 自分でやったもんじゃないんですよね それは完全な自給自足生活なら 自分でお米を作って あばら屋に住んで という生活もあり得ますけど そんなのは今はないんですよね そこで日本人はどう考えたかって言ったら 労働は別に神様の罰じゃない 労働はですね 自分で米を作らない 味噌を作らない 魚を獲らない 自動車を作らない エアコンを作らない 家を建てないのだから 自分の仕事の上でその分だけは返さなきゃいけない それは最低の義務なんだって事なんですね それは別に人間として正しいことである 勤労は正しいことであるって言うのは日本なんですよ 勤労は罰である  神様の罰であると考えるのが外国なんですよね ですからもう180度違うんです それで日本はもう それで一万年もやってきましたのでね 大体 そうしますとね 日本人が勤労を神様の罰だと考えてもね 考えきれないところがあるんですね 自然と自分は働いてしまう だから非常に簡単に言えば アメリカ人の理想的な人生はと言うと 45歳までにお金を稼いで 45歳からは仕事をしないで 遊んで暮らすのが理想的だって言うわけですよ それは労働が神様の罰ですから それから解き放たれるのが幸福なんですね ところが日本は 他の人が働いて頂いて 自分はご飯を食べて エアコンの生活をして電車に乗ってるんだから その分だけは死ぬまで 働きたいって言うのがあるわけですね ですから できるだけ長く働きたいっていう風な それが幸福だっていう事なわけですね だからもう180度違っちゃうんですね それで まぁ男の場合は定年制というのがありますから 強制的に その人生でやるべきことから離れて 不幸になっちゃうんですけども まぁ家事をやってる女性はですね 主婦ですね 昔の は非常に幸福なんですね その点で というのは 今はね なんか家で働くのが賃金に結びつかないので 女性が嫌がってますけども やっぱり働くということが 賃金をもらうことよりか もっと優れているんですね そういう意味では 女性の場合は家庭労働をしてる限りはですね 定年が基本的にないので 一応家庭労働ができなくなるほど 体が弱るまでは まぁ幸福な人生を送れる可能性がある とも言えるんですね つまり例えば  これはもういろんな所に現れておりまして 例えば東南アジアに 会社の用事で派遣になる人がいますね 課長さんぐらいって言うの 奥さんもついてって 外国だから珍しいとかですね 生活したいとか 会社はまぁ できれば奥さんも一緒に行ってくれって言うんで行く そうすると 日本の割合大きな会社で 東南アジアに支店を持っている様なところだったら 大体東南アジアに行きますとメイドが付く ところが このメイドに言わせると 日本人の主婦のいるとこが一番困るって言うんですね 自分たちが働くものがない トイレも奥さんがやってしまう 皿洗いも奥さんがやってしまう 日本の女性によってはですね 主婦によってはですね 皿洗いを他の人にやってもらいたくない 自分流儀にやって 自分の家族の健康は自分で守るんだって言う まぁそう言うのが多いわけですね  つまりまぁ 例えば私でしたら物理学ですから 物理学でご飯ができるわけでもないし お味噌ができるわけじゃないので まぁ賃金でやると だから自分が 他人に恩を受けてる分だけは 自分の領域で返すっていう気持ちが強いわけです すごく強いわけですね ですから当然 幸福も違って日本の場合の幸福というのは 先ず それを示しているのが江戸時代の職人の話ですね 9時から2時までは ガキとかかあの飯のために働く 後は遊びだっていうわけです  これはまぁ 短い言葉の中に全てを含んでますね つまり日本人の考え方は 幸福な人生っていうのは まず自分が外から他人から受けてる恩ですね お百姓さんが米を作ってくれた 技術者がクーラーを エアコンを作ってくれたり お風呂を作ってくれたりした その分は 9時から2時までで もう返すと 2時からはやっと やっとっていうか そこまでやらないと 2時から遊びに出ても 満足できないんですよ 日本人は満足できないですよ だから日本の幸福っていうのは まずは働く それも社長になるとか そういうんじゃないんですよ あの外国のね 特にヨーロッパの幸福論って言うのがですね 先ず偉くなることなんですよ 偉くなる その5パーセントって僕は言ってるんですけど 社会の中の5パーセント 20人に1人に入る これがもうとにかく 幸福の第一歩だっていうことで 一生懸命勉強し 我慢し 努力して仕事をするんです その仕事っていうのは 日本とはちょっと違うんですよ 外国の仕事はですね 出世した仕事なんですよ 出世した仕事の中に自分の身を置くっていうのが あの幸福の一つの条件なんですよ それはどうしてかって言ったら 労働が神様の罰だからですね ところが日本はそうじゃないんですよ お百姓さん お味噌の職人  それからお風呂を作る職人 これと同じレベルの仕事をしなきゃいけない それが一番 自分が生活してる上で まず人間としてやらなきゃなんない 先ず第一の事なんだって意識があるので 先ずはですね 仕事が面白くないとかですね 仕事がやりがいがないっていう人はいるんですよ それが引っかかって これは幸福じゃないって 不満を持つ人がいるんですけども これは非常に難しいんですけども やりがいがあるとか 面白いとかいうのじゃないんですよ 日本人の働く 妻が?ですね あのむしろ辛い方がいいって言った方がいいですね つらい方がいいというのは ちょっと極端な言い方ですが 人が辛い思いをして米を作ったり お米を作ると言ったって今は違いますよ 昔はね 鍬を振ったり 寒いとこでも出て行ったり 暑い時でも草取りしたりするわけですから その苦労を自分も 味わなきゃいけないって意識なんですよ ですから働くということが それほど快適であるとか 楽しいとか それから自分が人生でやりたい仕事を するって言うんでもないんです やっぱりそれは我慢して 他の人が仕事で我慢してくれてるように 自分も一緒に我慢しよう 私の言ってる絡合的な考え方なんですね ということで 今日は幸福の構造の2で 幸福の初歩ですので あまり深くは踏み込みませんが 勤労に対する考え方というのを 
少し考えてみなきゃいけないと思います 

平和運動をしよう(6)まず独立 この世には悪い国がある 軍備均衡が第一条件 同時に「力づく」の社会を非難する 選挙制度の改正からスタート (武田邦彦)


 

平和運動をしよう 6回目なんですけども まぁこれ非常に大切で 僕は来年の活動としては 平和運動をどういう風に 具体的にやるかっていうことを 検討したいと思うんですけど 一番最初が一番難しいんですよね 先ず日本が独立しなきゃ駄目なんですよ やっぱり平和運動っていうのはですね 国と国との関係ですから 国際的ですからね 戦争っていうのは国と国とで起こりますから 今の時代に 国内で戦争が起こるっていうのは まぁ普通少ないので 国と国とで戦争起こりますからね やっぱり国がしっかりしてないと 先ず国際的に平和運動なんてしたところでですよ 言ってみれば笑われちゃうんですよ それでもちろんあの平和運動するっていうのは この世にはですね この地球に悪い国があるからなんですね 今で言えば中国ですね 中国は何で悪い国かって はっきりしてますよ まぁいつでも中国の方が反論して頂いていいんですが 中国はですね もともと北は万里の長城ですよ 西はチベットの間にある高い壁ですね 急にこう高くなってますから 南はベトナムとかインドシナとの堺ですよ 東は海ですね その中に志那という地域があって これ地域ですよ 地域があって そこに昔から漢唐宋元明清という国がですね 次々と王朝が変わって存在したのが 中国と今言ってるところなんですね ところが今は中国はですね 第二次世界対戦の後 日本軍が中国を離れたので それをいいことにですね チベット これは別の国ですよ ウイグル これも別ですね ただウイグルは中国はどちらかっていうと ウイグルを占領したというよりか むしろウイグルがソ連の支配下にあったものを 自分の支配下に戻した 戻したっていうか 取ったと言ったのが正しいでしょうね それから内モンゴル これはモンゴルの国ですね だけども今は どんどんどんどん 中国人が内モンゴルに入っていって それであたかも中国の国の様になってしまいましたけど これもモンゴルですね  それから満州は多くの人が迂回していますが 満州はですね これ中国じゃありませんで 民族も漢民族じゃなくて 女真族なんですが  たまたまですね 中華民国の前の国ですね 清ですね 清という国は 清という中国の国が中国の国じゃないっていう 非常に分かりにくいんですね 満州が中国を占領したんですよ 逆に これこういう事ありますね 元のフビライっていうの皆さん知ってますけども モンゴルが強くなって中国を占領して モンゴル人が支配した国が元なんですね 今 元というのはモンゴルでしょう だからと言って モンゴルが中国の国じゃないんですよ 当たり前で 外の国が 中国を占領したわけですから それと同じくですね 満州というのは日本人は なんか中国の一部みたいに思っていますけども 全然違って モンゴルも中国の一部って事になりますね 中国を占領した国が中国じゃないんで 当たり前ですけどね 満州も違いますね それからさらに1978年には ベトナムを占領しようと思って 侵攻していったんですね そりゃもちろん朝鮮戦争も北朝鮮にちょっと色気があって 中国軍が入っていったわけですね ですから中国がこういう平和という点でも 悪い国であるという事は明白で 何しろ第二次世界対戦の後 日本がまぁ2勝1敗1引き分けで 戦争が終わった後ですね イギリスもオランダも日本と戦った国は みんな参っちゃってですね アメリカのそうでした 植民地を次々と手放して やっぱり人の国を占領してるのは悪いと つまり武器で  武力で人の国を占領するのは悪いということで 国際的な consonance?もあって みんな離したわけですね 皆が植民地から独立してる頃に 中国はですね 今の中国というか 中国共産党なんですけど 1949年から1950年にかけて 周辺の国を占領したわけですね なんで占領されたかって言ったら もちろん周辺の諸国が軍事力が弱かったからなんですよ だから なんて言うんでしょうかね  これ非常に難しい矛盾した問題なんですが まぁ1648年にヨーロッパでね 合意したようにですよ まず平和をもたらすには 軍備均衡が大条件だ これはヨーロッパとしての判断が正しかったんですよね 30年戦争っていうのが ドイツの中心としてあってですね 30年戦争し続けてたわけですね 第二次世界大戦の時 4~5年なんですよ だけど30年も戦争し続けたんでもう嫌になってですね ウェストファリアっていうところで条約を結んで まず軍備均衡にいこうやと いう事になったわけですね まぁ人間は理想的な生物じゃないんですよ なんかの戦争が起こるんですね 戦争が起こるって簡単に言えば お前のものは俺のものだっていう そういうのを力づくで やろうっていうのが戦争ですからね 誰もが自分の国は自分の国でいいと思ってた 日本がそうだった 実は これはもう日本の学校の先生が嘘を 嘘をつき続けたものですから 今の日本人が 多くが誤解してますけども 世界の中で日本がですね ほとんど唯一というぐらい 力があっても外国に行かなかったわけですね そういうとですね すぐあのー 豊臣秀吉の朝鮮征伐なんかが出てきてですね あれはですね 日本の考え方では例外なんです そりゃ例外はやっぱり一つか二つあるんですね 何しろイギリスと日本と比べると日本はですね 戦争の回数 外国との戦争の回数 1/100よりか小さいですからね イギリスは日本の100倍以上戦争してるんですから 外国に侵略して 全然世間の常識と比べるとですよ そんなにお釈迦様だけが住んでる国じゃないんで 一個か二個ぐらいの例外は存在します それは別に私全然否定しないし  隠しもしないですけどね だけど そういう例外だけを挙げて議論してもですね あんまり意味がないんですよね だから日本が先ず アメリカ軍に出て行ってもらって 自分でその独立する つまり 自分で自分の平和は守る これが出来なければ 人に言えないんですよ 先ず だって日本の中だけではですね 軍備を持たないのが平和だなんて言ってる人いますけど そんなのは世界で全く通用しません 何で通用しないかって言うと 今まで人間が苦労して築いてきた知恵ですね それに反するからなんですよ そんなこと言ったってね それが架空のものであるってことは チベットが チベットと中国がそれを示してるわけですね 中国がチベットを占領したのは チベットが日本でいう第9条  憲法第9条みたいなの持ってて 仏教で国を治めるんだから 仏教で国を守るって言ってたんですよ ところが仏教じゃ国は守れなかったんですよ 悪い奴が世の中にいるから それはね 悪い人が社会にいないから 警察が入らないって言ってるようなもんですよ そうすると女性なんかどんどんレイプされたり 暴行されたり殺されたりするわけですよ だけどもそれでも信じますからと  日本の国の治安が良くなるといいですかね 日本に第9条が大切だなんて言ってるのは どういう人かって言ったら 警察がいなければ 犯罪がなくなるって言ってる人と一緒なんですよ そんな事はないんですよ  それは人間という生物がそうだから しょうがないんですよね だけど同時に  力づくはいけないとも言わなきゃいけないんですよ これは当たり前ですね 日本に警察があり 110番したらすぐ警察が来るという体制を作っておいて その上でですね 犯罪はいけないと女性を襲うのはいけないと こう言ったら始めて辻褄があうんですよ 女性を襲ったらいけないんだけ言ってね 警察がいませんじゃやっぱり駄目なんですよ だけど これをやるにはね そういうことを言う人をね 議員にしちゃいけないわけですが その議員にしちゃいけないことをやるにはね やっぱり小選挙区制 これがあるとね そういうことを決める 力のある人が議員にならないんですよね 今日の虎ノ門ニュースで 大分言わしてもらいましたが 従って まず日本が独立して 日本人が平和を守ると言う姿を世界に示さないことには 世界に全然影響はないんで 平和運動をする意味がないんですよ ところがそれをするには 日本は日本で独立に 軍備均衡に持っていかなきゃならないので アメリカ軍が日本の中にいてね それで平和なんて言ったって無意味なんですよ だってアメリカ軍に実際守ってもらってるわけでしょう このところアフガニスタンにしても イランにしてもイラクにしてもですね 中東にしても アメリカは全部戦争してるんですから 一番戦争多いのが中国とアメリカなんですからね ですから そのアメリカ 戦争の多いアメリカ軍に保護してもらって それで日本は平和だなんて言ったってですね それは全く無駄で もちろん日本は第9条があって 軍隊がいないなんて言ってもそれはもう無駄なんですよ アメリカ軍がいるんですからね だから そういう矛盾した状態で運動やっても駄目なんで まずは アメリカに出て行ってもらって 日本は日本で軍備均衡をしてですね 周辺の諸国ですね それからアメリカ ロシア 中国 朝鮮 そこら辺と全部軍備均衡して そしてから力づくの世界 つまり 警察は整えた  110番したら警察は来てくれるという体制をとってから 犯罪はいけない 暴力犯罪いけないと言わなきゃいけない それで 社会を平和にしていかなきゃならない だからどうしても 選挙制度の改正がいりますからね これはまぁ とにかくだけど 言わなきゃいけないと思いますので 今日 話をしたという事であります

「命令」は言い訳 一人一人が魂を! 山下奉文陸軍大将の遺言 現在の方が命令を強調する  特に上司より本人が。 (武田邦彦)



人生でも色々な その素晴らしい本とか それからまぁ 色々言ってる話に触れるんですけども そのうちで私が本当にこれは 一生忘れることができないなぁと思ったのが 戦争の時にシンガポールの攻略の司令官をやった 山下奉文その時陸軍中将 後に陸軍大将になりましたね この人は私は大変に立派な人だと思うんですが いろいろその陸軍の中では まぁいろんな意見もあったようで 必ずしもその彼の能力とか覚悟と言ったものに沿った 出世をしたわけでは まぁだけど陸軍大将ですからね まぁ立派なもんなんですけど 思うところもあるんですが 彼はそのシンガポールでものすごく戦果を挙げて 本当にこう太平洋戦争 大東亜戦争のなかではですね シンガポール攻略戦というのは イギリスが約300年ぐらいですね 世界中を席巻して植民地を作ったものに 最後の一撃を与えたっていう意味で 歴史的にも もの凄く大きい シンガポール要塞って言うのはもう絶対に落ちない まさかアジアの小国の日本がですね イギリスのシンガポール要塞を落とすとか その時 マレー沖海戦って言うのがあったんですけども それでプリンスオブウェールズ これは当時のイギリスの旗艦ですね 旗の艦と書く 一番大きい それでプリンスオブウェールズという その皇太子という イギリスの皇太子って言う名前がついてるわけですね それとレパルスという戦艦と 日本の飛行機が雷撃と爆撃で沈没させたと これはチャーチル首相がですね プリンスオブウェールズ アジアが大切だから このプリンスオブウェールズをですね まぁ虎の子だったんですけども その軍艦をシンガポールに送ったという経緯もありましてね 大変な戦果でした それでこの間 山下奉文陸軍大将は僕の感じだと その後 もう少し陸軍の中枢に 行くべき人だったと思うんですけども まぁ色々なことがあったんでしょう 人事ですからね それで一旦は官職にいて それから戦争が終わる少し前に フィリピン方面軍司令官として フィリピンに着任したわけですね 結局 敗戦して戦犯となり 有罪判決を受けて絞首刑になりました これは非常に酷いことで アメリカの残虐性って言いますかね アメリカには文化がないなぁっていうことを思う 一つのあれなんですが 通常は軍人ですからね 負けても勝っても お互いによくやったと これは私がよく言うように 日露戦争の旅順攻略戦でですね 乃木大将が多大な犠牲を出しながら ステッセル将軍が守る ロシアの旅順要塞を落としたんですけども 落とした後  若干負傷をしてたステッセル将軍をよく遇して 降伏交渉をしたわけですね その時に普通でしたら捕虜は刀は 帯刀できないんですけど やっぱり 軍人としてと言うことで ステッセル将軍に刀も ステッセル将軍及びその人  それに従う部下がいるんですけど その人達に刀の帯刀を許して そして水師営というところで会見をしたと 日本の文化が実に世界的に優れていたか ということを示しておりますね それから見たら アメリカを尊敬してる人は日本人に多いんですけども 全然私はアメリカの文化と比べて 日本文化は数段上だという風に思っております その山下奉文陸軍大将が フィリピンで絞首刑になる時ですね アメリカはさらに打撃を与えるために シンガポール要塞の司令官 降伏した司令官を呼んでですね そしてそこで報復させるということをやりました そういうことは  まぁアメリカとかイギリスやがることですから くだらない事なんですが 山下奉文大将がですね その 殺されるって言った方がいいんですね 名誉ある死を選ばせなかったわけですから その時に書いた彼の遺書ですね これには 本当びっくりしました 陸軍 日本陸軍って言うとですね もう故無くビンタを食らわしたり ひどいことをするという そういう上意下達 それもひどい上意下達の軍隊として まぁ日本人が書いてるんですよ 今から考えたら 反日日本人だったかなぁと もうちょっと僕も勉強しなきゃいけないんですが そういう感じがするんですね ところが山下奉文陸軍大将が言ってる 遺言の中に書かれてることは 先ずね 日本の軍人は 兵隊はあまり大した事ないって言うんですよ 何でかって言ったら 上官の言う事に唯々諾々として従うからだって 書いてあるのを見てですね ひっくり返っちゃったですね  えっ何だ!ってこう思いましたね それで山下大将がなんて言ってるかって やっぱり軍隊はもちろん命令されて 自分が命を落とすのでも突撃しなきゃならない それはそうだ だけど 強い軍隊というのはどういうものかって言ったら 必ず部下はですね 上官に対して自分の意見が異なるときは それを言うべきだと 最後は上官の命令に従うべきであるが しかし人間であるからやっぱり兵隊はですね 兵隊といえども やっぱりちゃんと 意見を言ってやらなきゃいけない これが日本陸軍には欠けていた それが日本が敗北した一つの原因であると まぁこれには本当にびっくりしました まぁ素晴らしい人だ 素晴らしいなーと思いましたね それで家庭についても触れてましたね 日本の奥さんですね ご婦人は貞淑な夫人というのは主人ですね 旦那の言うことを素直に聞くという女性が尊ばれてるけど 違うと やっぱり女性は 女性としての意見をはっきりと その夫に言わなきゃいけない それじゃなくっちゃ 家庭というのはちゃんとした家庭にならないんだ こう書いてあるんですね これも本当にびっくりしました 同じ考えですよね 人間一人一人が魂を持ってるんだ だから 命令は命令で仕方ないところありますね 軍隊は命令ですし まぁ家庭は命令ではありませんが 強調ですけどね まぁそういうことですね ところがですね 私はそれから 山下奉文大将が殺害されてから もう既に70年が経ちますけどね 現在の方がむしろ民主主義といっても 多様化の時代とか言ってもですね なんか職場とか そういうとこで 命令を強調する傾向がありますね 私は実はそれが嫌いで すごく嫌いで元々 ちょっとそう言うのが嫌な体質ではあるんですが この山下大将の遺言を知って ますますそう思ってですね それでいろんなところと交際がありますね それで仕事も一緒にします その時に担当の人に 直接何でも言うんですよ そうしますと担当の人は必ずですね それはちょっと 上司に言ってくれっていう顔をする事があるんですね それから それは社長の話なんじゃないかって こういう風に思う 思うような顔をしたり ちょっとそういう事で 言ったりする方が多いんですけれども 私はね やっぱりこの山下大将の遺言ですね 本人 兵隊 兵卒 一兵卒 本人 これはまぁ女性その頃  女性はあんまり地位が高くなかったんで 女性がやっぱり地位とかそういうんじゃなくて 自分の考えをしっかり言うんだという言葉はですね もうほんと生涯忘れられないわけですね やっぱり山下大将の軍隊が強かったって言うのが やっぱりこう大将がですね そういう考えを持っているって事であると それもこの頃ですね そのむしろね 上司がそんな事は本人に聞いたって駄目ですよ 私に聞いてくださいと 私に言ってくださいって言うんじゃなくて 本人がちょっとそういうですね 上からの命令がありますから と言う様なことを言う 言うこと もしくは言いたいような 顔をすることが多いんですね それは もしかしたら 言い訳なんじゃないかと僕は思うんですよね 本人が日頃から自分の職務を全部わかってて 人間として一人一人の魂として言うと 上司であれ お客さんであれですね やっぱりそういうことだと思いますね そういう点では私まぁこれもいつも言うことなんですけども イザベラ・シッドマー? 江戸時代の終わりの頃に 日本の東北地方を旅行した イギリスの女性ですけども その人がある宿でですね 一泊して大変に女中さんが良くしてくれたので 出掛けにですね 心付けを渡そうと思って お金を包んで渡そうとしたら その女中さんがですね 私は自分の職務をやったに過ぎませんから 金子を頂くことはできませんと言ったと これもイザベラ・シッドマン?が 非常に感心してるんですね だからそれこそがやっぱり一人一人の職務を どういう風に自分でしてるのかと 言うことを示しておりましてね それはあの日本という社会が単に強調とか 単に上司の言うことをへつらう社会じゃなくて 一人一人が職業として きちっとしてたって言う事を意味してるんで 現在の方がやっぱりヨーロッパっていうのは むしろ命令を聞くっていうタイプですからね やっぱり日本文化は そうじゃなかったんじゃないかという事で まぁ僕は残念な気がするんですね あのこれも私がいつも話しするんですが ヨーロッパの人がアジアに来るようなって アジアの人は 例えば川の渡しですね 渡しの船頭さんか 外国人と見れば3倍から5倍の 渡し賃をふっかけるのが普通だけど 日本の渡しはそんなことはないと 10銭なら10銭と 日本人でも外国人でも10銭だと いうことを話しております これもやっぱり本人が そういう気持ちを持ってるっていう事ですね やっぱり僕は日本の思想っていうものが 山下奉文大将の思想なんだと 是非機会がありましたらですね これはネットなんかで 山下奉文大将の遺言を読むことができますので ぜひ参考にしてですね 自分の魂を強くするということが 非常に大切ではないかと そのように思います

 

「産みの親より育ての親」と「日本の神」 (武田邦彦)


 

産みの親より育ての親っていう言葉がありますね これは非常に含蓄の深い言葉で 現在の科学の研究の多くがですね これに注がれていると 言ってもいいぐらいの割合なんですね しかし私はいつも思うんですけども 日本の神っていうのがですね あたかも昔 日本人の古代の人がですね それが分かっていた様な 決め方と言いますかね 性格って言うか それを設定をしてるっていうのに 本当にこう 今から20年ぐらい前に びっくりしたことがあるんですね というのは 日本には宗教 いわゆるヨーロッパで定義された 宗教というのは無いんですね これは宗教がないんじゃなくて よく日本人が あなたはどういう宗教ですか? 私は無神と言うか別に宗教無いんですって いう風に応える日本人って多いんですけど これ本当は間違ってるんですよね 日本と言うのは 西洋風にちょっと言えないんですよ 定義が違うんですね 宗教っていうのは もともと違うんですね 神道もすべて 日本の宗教と言うのは 日本教というか 日本 教というのを付けちゃおかしいんですよ 日本? 日本人の考え方と言うのでいいんですね それはですね 自分を作ってくれた人を神とすると これが日本の宗教なんですね 自分の作った人と言ったら 先ず 作ったものと言ったら先ずですね 自然ですね その一番は太陽でしょうね それから二番が月 地球そのもの 海 山 川 こういったものが 岩石こういったものですね それから動物ですね 狼とか鹿とか 虫のミミズまで そういったものですね そういったものがなければ 人間というのは存在できませんね 魚も含めて ですから 自分を作ってくれたものというのは 太陽とか そこから始まってミミズまで ずっと周りのものが神様なんですね だって自分を作ってくれたのですから やっぱり神様でしょうね どんな偉い人よりか偉いですよ それは それが自然を神とするということなんですね ですから 岩にしめ縄を張ったりですね 太陽 お天道様の下では嘘をつかないと これも日本だけの信仰と言うんですかね 太陽に手を合わせるなんていうのは これは信仰に近いんですけどね そういうことなんですね それでもう一つは自分の祖先ですね 自分に祖先がいなければ自分は生まれてないわけです 祖先はあんまり遡るとアメーバとかですね ゾウリムシとかになっちゃうんですけど 単細胞生物ですね そこまでは遡らなくていいだろうと まぁ哺乳動物ぐらいからでいいかなってなことで 一つは動物の世界 植物の世界 植物もいなければ人間いませんからね だけどそれは自然の方に分類されておりまして 自分の祖先っていうと 人間に限ってるんですね それで 人間っていうのはどのくらい遺伝子が 混ざるのかっていうのは簡単に計算が出来るんですね 親が二人で 親の親が四人ですから 親の親の親は8人ですから これは2のn乗ということになるんですね ちょっと2のn乗って難しいですけど nがどのくらいあるかでね 2の2乗と言ったら4なわけですね それで2の 例えば5乗といったらですね 5代遡ると親は32人になるわけですよ 5代遡ると 10代遡るとつまり300年遡るとですね 親の数は約千人 1024という数字はなるんですけど 1000人になるわけですね 10代遡ると そうすると だいたい1代が30年ですから 千年っていうと 30代くらいなんですね まぁ33代って言ってもいいですけど 30代ぐらい そうすると どのくらいかって言うとですね これはもの凄い数で10億人なんですよ ですから 日本の人口は大体 元々2千万人とか3千万人ですから 1000年前ですね 1000年前というとまぁ西暦1000年 紫式部とか平安時代の終わりですね まぁ貴族文化の終わり その頃の人達のうち 我々はですね 10億人の親と親から出来ているわけです もちろん10億人いないんですから ダブって こう親がダブっていくんですね という事は日本は大体そうですね 一万年前ぐらいから はっきりした形を取っておりましたから 3万年前って言ってもいいんですか 一万年前とすればですね もう一万年前というと 天文学的数字になるんですよ 親の数は という事は どういう事かっていうと 我々は遺伝子がほとんど一緒ってことなんですね 全員が兄弟なんですよ 実は 日本人って全体が兄弟なんですよね ですから黒い髪を持ち 割合ちょっと黄色めの皮膚を持ち それから背の高さがこのくらいとか 足の長さはこのくらいとか 腸の長さはこのくらいとかですね こういうものが消化しにくいとかですね そういう全体的な日本人っていうのができるわけですね これはあの先ほど一番最初に言いましたように 現在の科学ではもう最先端なんですね 遺伝子の共有性 人間というのは遺伝子が99.9パーセント共有してると 後の0.1パーセントで差が出ると 民族の差とかですね そういうのが出ると言われているんですが 同時に今ものすごく研究されていますから 今あんまり結論出すのがちょっと早いんですね つまり人間の形とか性格とかは色々ありますが そういったものの内 環境に左右されるものって すごく少ないと言われていますが しかしまだ研究途上なんですね ですから 今の段階であまりこう 共有がどのくらいかってのは 言えないので僕は大体99.9以上は 共有してますからね 何ていうのはですね 研究途上の時にあんまり断定的な事を 言うとですね 誤解を与えますので 人間は 例えば日本人は 遺伝子の多くを共有してるというぐらいに言うのが むしろ正しい言い方かもしれないですね それは何かって言ったら 実は自分は誰から生まれたというよりも その日本人であるとか 人類人間であるということ自体で ほとんど子供と一緒だ 親戚と一緒だって事なんですね ですから 産みの親より育ての親って言うのは当たり前で その産んだ遺伝子って言うのは 隣のは 親戚の甥っ子とか もっと遠い離れた人たちと 自分の子供っていうのはほとんど同じと言っていい訳です 従って もちろんその後 育てた方が育てた年限の方が 愛情もわくしですね 性格も似るしですね いろんな点で似るんですね そういう意味では 産みの親より正に育ての親なんです これは産みの親より育ての親っていう表現が 少し不適切かもしれないんですね 産んだ子供はほとんど同じと だから 親子の愛情は育てる事によって作られると  こう言ってもいいですね まぁだから 日本の神というのは そこがよくわかっていたってことですね まぁ言ってみれば 女性の寿命なんかをいろいろ研究してもですね 子供のいる人といない女性というのは ほとんど同じような人生を送るんですよ その見かけは違いますよ 子供がいる 親は一生懸命お弁当を作るとか そういう見かけは違うんですけども 全体としては同じなんです ですから寿命も同じなんですね だからそういう点では まさに産みの親より育ての親であって それがわかっていたのが日本の神様であり 自然崇拝と それから祖先崇拝と この二つで成り立っている それから 日本がヨーロッパとか中国の神様と 圧倒的に神の概念が違うのは 人間が死んだら神様になるんですよ 日本の場合は ところが例えばキリスト教なんかはですね 死んだって神様は神様なんですよ いくら人間は死んで偉い人でも 聖人ぐらいには列せられますが 神様にはならないんですが 日本はですね 日露戦争で戦った乃木将軍 いやぁ神様だと あの人は神様かどうかわかりませんよ だって評価が二つに分かれてるわけですよ 僕は乃木将軍を評価してますけど 乃木将軍はポンコツでね 日本人の兵隊の多くを 殺したっていう風に評価してない人もいるんですよ だけどもやっぱり お亡くなりになったら神なんですね ですから日本には信仰の自由とかないんですよ なんでないかって言ったら 神様が 神様というものの概念が違うんで 信仰という概念も違うんですね ですから 日本人は この前アメリカ人と話しましたが アメリカ人が 日本人は素晴らしいと 何故かって言ったら神様がいなくても 道徳が守れるっていうわけですよね 神様以外に何を基準にしてるのって聞かれるわけですけど それは日本の神 自然の中に自分は生きている だから感謝しよう 祖先の結果 私がいる だから祖先にも感謝しようということなんですね それがもう 日本の日本人の心の中には 非常に強いので まぁ お釈迦様でもいいんじゃないの イエス様でもいいんじゃないの ムハンマド つまりマホメットも 多分素晴らしい人なんでしょうねと 孔子様 これも偉いんでしょうねと みんな偉いですよと 私よりか少なくとも偉いですから まぁ尊敬はしてますねってという事になると これはですね だから信仰の自由っていうのは 一神教みたいな  この宗教じゃなくちゃいけないっていうような 非常に堅苦しいものはそうなんですね  それから道徳も日本の場合は お天道様の下では嘘をつかないって こういう道徳なんですね ですからノーベル賞をもらった文学作品で カミュの異邦人ってありますけど それを見ますと非常にこう ヨーロッパ的な宗教概念と道徳というものが 極めて鋭く表現されております ですから世界的には 日本はマイナーですから マイナーな存在ですからね こういった事については カミュの異邦人が文学賞 ノーベル文学賞を取るわけですが 私から言えばね ちょっと傲慢な言い方なんですが ちょっと神の概念が甘いんじゃないですか? と言いたくなると まぁこんな感じですね

「著作権」は「力づく」の社会の産物  著作権は根源的な権利ではない。 著作権は「力づく」、「金まみれ」の社会  日本で著作権がなかったのは「力づく」ではなかったから  著作権の無い社会を作っていきたい



 私はですね

この日本が力づくの社会ではなかったと 日本以外の国がですね ほとんどの主要国が力づくの社会でですね 軍隊が強い方が偉いと お金を持ってる方が偉いと 女より男の方が偉いと いう風に全部力がある方が偉いという そういう間違った 間違ったというか日本の文化とは違う国なもんですから どうしても外国にかぶれてる人 ヨーロッパにかぶれてる人はですね 力づくの社会がいいと思っているわけですね それからまぁ日本の独特の文化を 理解してないっていうぐらいあるんですね 日本が2,000年間 非常に平和で 平等で奴隷もいなかったという社会はやっぱり 力づくじゃなかったからなんですね 是非私は力づくでない社会ですね やっぱり人間を尊重するという 力のある人が偉いってわけじゃないと この社会はどうしてもですね 今のアメリカみたいに 1パーセントの人が40パーセントの金を握ってるとかですね それから中国のように 共産党の独裁であるとか そういった社会を作ってしまうわけですね 力のある者が偉いということになりますと どうしてもそうなりますね ところが日本は 結婚したら妻の方が偉くて 偉いというのは やること何でもやれて 夫はやれることが制限されてるわけですね それから会社もですね 日本の会社っていうのは従業員のためだったわけで 決して株主のためじゃないんですけども 最近では日本人がですね 日本人の方が株式会社は株主のものなのに あなたは知らないのかと この前言われたんでですね 知ってはいますけど 株式会社が株主のものという考えが間違ってるんですと まぁ会社っていうのは 従業員が努力し 経営も努力し 日本国も土地とかそういう道路とかを提供してくれて 初めて実施できるわけで 何も金を出す株主だけが会社を持ってるわけじゃないと 株主が会社を持ってるというのが 力づくの社会のシステムなんですね 非常に残念なんですが 著作権もそうなんですね 著作権というのは 18世紀にイギリスで出来た権利で これは力づくの社会だから 著作権というのが出来たんですね 金まみれ 力づくの社会という中で 人間の頭の中に発生したものですね 著作権ですから それが権利として 社会的に認められるという制度を作ったわけですね 現在では著作権があるからって すごく威張ってたりですね 著作権を侵害したって言って 侵害した人をものすごく非難したりしますが 元々著作権っていうのは期限付きなんですよ 出来た時は15年とか25年とかだったんですね なんで著作権が期限付きで 所有権は期限付きじゃないかって言うと 所有権は人間の根源的な権利なんですね 著作権は臨時に与えられている権利なんです それがイギリスで発生した後 アメリカで アメリカは更に力づくですから 著作権が50年になり75年になったわけですよね ですから 著作権で押さえつけるっていうのは正に 力づくの社会なんです じゃあなんで人間は著作権について 頭の中で出来たものについて 権利を認めなかったかっていうと 例えば まぁあのイエス様の聖書でもいいですし お釈迦様の書いたものでもいいんですが  そう言った物については 著作権が及んでないわけですね それはどうしてかって言うと 我々は地球上に生まれて 地球上でいろいろ権利も調整しながらやりましょうと その中で ものについてはね 例えば自動車を持ってると そしたら 他の人が勝手に自動車使うと不便だから やっぱり所有権というのをしっかりして どの家が 家とかそういう風にしようじゃないかと いう風になったわけですが 著作権と言うか人間の頭の中で考えたものは イエス様が考えついたと それを皆が それを聞いて あぁーなるほどいいなぁと思ったと そして イエス様が例えば貧乏なほど幸福であると こう言われたと それを聞いた人が本当だなーと思って 他の人に貧乏な方が幸福であると言ったから その人は損をするわけでもないし またそれを言ったイエス様が 損をするわけでもない つまり人間の頭の中で出来たものっていうのは 共有性があった方がみんなが使えた方が 人類の幸福になるって言うのが 実は18世紀のイギリス つまり力づくの社会じゃないところではですね こういったまぁ 森の入会権なんかもそうなんですが 人類は昔の方が レベルが高かったっていう様なところもあるんですね だから著作権 それで日本の最高裁判所高等裁判所の 著作権の判決って言うのは いっぱいあるんですけども この非常に制限されてるんですね 思想又は感情に基づく創作物であってって言う風に 事実ではないと 事実については著作権及ばないと いう事を明確に言ってるんですね 事実についてはもちろん 著作権は及ばないんですよ だからマスコミが非常に上品ではないんですが マスコミ 新聞記事なんかはですね 文学作品なら 著作権が及ぶと言ってもいいんですけども ただそのニュース記事なんかをですね 著作権があるって言って頑張るんですね マスコミって言うのは  例えば朝日新聞だったりNHKだったり すごく力が強いんで 一個人が逆らえないんですよ それをいいことに 最高裁の判決なんかをわざと隠してですね 著作権を主張するっていうのが その今のマスコミのやり方なんですね ですから私はここはですね 日本だけでもいいんですけども まぁ日本の最高裁の判決は今ですね 著作権ついて非常に厳しく制限しています 思想もしくは感情に基づく創作物であって 表現されたものと言うですね 極めて厳しい制限をしているんですね したがって著作権を主張する人にはですね 必ず これは思想か感情に基ずくものですかと 事実とは違うんですねって まず言わなきゃいけないんですよ それが表現されてあるもの  そういうものだけに限られるんだと なぜかって言うとですね 著作権個人の権利よりか 社会がその人間の頭の中で生じたものを 使うというメリットが大きいからだって言う事なんですね 私は自分のブログ このブログですね そういったものとか まぁ自分の著作物には 基本的には著作権を主張してないんですよ そうするとね 今度は著作権を主張しないと それをまぁ悪用とまでは言わないんですけども 私のブログの内容の表題をガラッと変えちゃってですね ちょっとそんなこと言ってないんだけど と言うような表題をつけてネットで流すと 武田先生おかしいじゃないかと 内容と表題が違うよって いつも怒られてるんですけど やっぱり著作権があまり主張しない時は やっぱり尊敬する心とかですね それから上品であるとか そういう社会基盤が必要なんですね 礼儀正しいとかですね 相手に敬意を表する こういった日本の文化っていうのは 同時に必要なんですね 著作権がなくて みんなが言ったことを使える 聖徳太子が何か言ったらそれが使えると いうその社会ではですね やっぱりそれなりの上品さ 礼儀正しさ 謙虚さ こういったものを伴わないとですね やっぱりうまくいかないんですね それで私は実は著作権を主張する社会は良くないと これはね そしたら歌を作る人は どうするんだとかいい事あるんですが そういうことなのでやはり私は 著作権がないような 著作権のね ないと生活が出来ませんという人もいるんですよ だけど方やね 著作権だけで 何億円って取ってる人もいるんでね やっぱり社会的に補償される範囲の 著作権というものを考えるってことと 一応マスコミはですね テレビ新聞なんかに書かれたものは著作権はないと いう様に はっきり言ってほしいですね 実際そういうのが 日本の最高裁判決なんかで主流ですからね 主流というか 確定してる訳ですから だからやっぱり欧米の力づくの社会と いうものをこれ以上進めていくっていうのは 私はあまり感心しない やはり日本のように 人間の頭の中で 作ったものを使用する時は その人を尊敬してですね いやぁこれは良寛様が言ったことだとか もちろん あの親鸞聖人が書いた 歎異抄とか そう言うのだって 何にもあの あれはないんですよ 著作権ないんですよ 日本はずっと著作権ないんですからね だから外国から悪い風習ですね 著作権とか株主総会なんか 皆悪いんですけども こういう 悪いって言うか日本の社会には合わないもので 日本は そういうのをやらなかったからこそ 平等社会であり 奴隷が生まれなかったりですね 天皇陛下がいくら軍隊を持っておられなくても みんなで天皇陛下を きちっと遇するという上品な社会だったんですね 金まみれの社会ではなくて もう少し上品な社会に やっぱり戻して行くっていうことがですね まぁ日本で生活する人が より幸福になるんじゃないかと思うんですね 著作権がね 本当にね 主張されなかったら 本当に日本人が考えた知恵とかそういうのが もっと有効に使用されて 社会は全体的に凄く良くなると 私はそう思っております

「正しい」とは何か?人はなぜ自分が正しいと思うのか? 多様化の時代というけれどそう思っていない。 他人を尊重し自らも主張するのが筋。 間違いがあればすぐ謝って訂正する。 訂正を批判しない。


 

正しいとは何か 人はなぜ自分が正しいと思うのか いやですね 私日本は民主主義だと 言論の自由もあると それから反論の自由もあるという風に思って しかも多様化の時代といいですね 左翼の人達も まぁ右の人達もですね 共にそういうことは否定してないんですけども まぁこれマスコミが悪いとも言えないんですよ ネットも同じようなもんなんでですね 私はね 皆さんが多様化の時代と言ってるんだけれども その実際は多様化の時代ってのは どういう事を意味するのかって いう事をあまり考えてないかですね 実は口ではそう言ってるけれども 本当はそう思ってないか どっちかだと思うんですよね 多様化の時代と言ったら もちろんこの言葉の通りですね 人によって考え方が違うという事を 認めるっていう事ですね あの人によって 考え方やら希望とか望みとか 幸せとか夫婦とか男女とか そういうのはそれぞれ違う それが今まではもう社会はこうするんだって決まってた 特に日本ではですね 民族があまり分散してないとか それから文化がかなり似てるっていう事もあってですね 今までは日本人が合意するということは 一つに決まってるという風に考えてた訳ですね しかし いろんなグローバリゼーションっていうか 世界的な波もあるし またそういう所からいいものを取っていくって 言うのが日本の文化の優れた所でもあるので 多様化の時代というのに反対してる人って あんまり見かけてないんですよ ところが現実の言動はですね 私なんかもうじゃんじゃん叩かれるんですけども 武田の言ってるのはおかしいじゃないかとかですね そんな過激なこと言ってどうするんだとかですね そういう話が結構多いんですよ もちろん僕ばかりじゃないですね だからその本当に多くの人は 多様化の時代を認めてるのかと思うんですよね 多様化の時代って もちろん簡単に言えば他人を尊重し 自らも主張するっていう事ですよね 他人は他人なんだと だから 他人がカレーライス食べようが 中華が好きでも それはそれでいいんじゃないかと 自分は和食が好きだ それでいいんじゃないかと これを食べなきゃいけないって言うことないと それから健康もそうですね タバコなんかその典型的で 禁煙学会と言うのはもう酷い学会でしたね 禁煙学会の理事長さんかなんかの 割合と偉い先生がですね お医者さんですけど 全然診察もしないのに 副流煙かなんかの影響で 病気になったという診断書を書いてそれをもとに悪い人が 4千万円か5千万円ぐらいの 損害賠償訴訟をしたというのがばれて それで これ診察してないじゃないかという事になりましたね これはどうしてかっていうと タバコを吸うっていうことは多様化の時代を認める 一つのですね まぁメルクマールと言うか 肝心な所だったわけですね もちろん人前でタバコを吸って そのタバコの煙を その人の顔に吹き付ける なんて言うのはいいかどうかって これ全然別の問題ですね 自分の家で まぁ他に迷惑をかけずに吸ってとかね それからまぁ喫煙所がちゃんとあって そういう所で吸うと 僕は実は全然考えが更に違って 副流煙と言うのは若干の発がん性がありますんでね 私は日本人の発がんを抑えてた ひとつの大きな功績の あったものじゃないかと思ってるんですね 皆さんよく知ってるように 無菌室なんかで育てたらすぐ死にますね 免疫が落ちて 癌も もちろん免疫によって決まるわけですから だから日常的にある程度 発がん物質に触れてないといけないんですが 発がん物質に触れるって言うのは なかなか難しいですね まぁ私が日常的に思うのは タバコの煙ぐらいが丁度いいぐらいじゃないかなと いう風に私は思ってるので 全然私は考えが違うんですが これはまぁ 尊重してくれないんですよ 武田はなんだー とか言ってくるんですね これはあのー 禁酒法がですね 20世紀の最初にアメリカで成立した時に あれは禁酒法って言ってもですねえ お酒を飲むのは禁止できなかったんですよ お酒を製造したり販売したり 輸送したりするって言うのに規制がかかってですね その規制が非常に論理的じゃなかったものですから 結果的にはギャングを生んで 抗争事件が起きただけで終わってしまったんですね これもまぁ感情的なもので 多様化の時代を尊重しなかった っていう事によって起こった まぁ社会的な失敗例なんですね その時に お酒を飲むのが 禁止されなかったのは何故かって言うと ある人が こういう質問をしたんですね 禁酒団体ってのがものすごく感情的でしたからね 禁煙団体が感情的なのと同じように 禁酒団体も感情的なわけですね それで禁酒団体に対してある人がですね 私は寝る時に ベッドサイドでウイスキーを飲んで寝るのが 私の生活習慣ですと 他人に何の迷惑もかけてません 起きた時にはもうお酒は酔いが冷めておりますと なぜ私がそれは法律的に 規制されなきゃいけないんでしょうか このまぁアメリカですからね 多様化の時代ですから アメリカはまさに多様な民族ですよね だってアメリカ人と言うのは 一番最初のイギリス人はそうでしたけど 他は移民で構成されてるわけですから まさに多様化なんですね だから多様化の時代っていうのは その理屈なんですよね 法律で決められる もしくは指導とか そういうもので決められるのはですね 多様化の時代を認めて 他人に迷惑かけるものだけっていうのがね 多様化の時代の根本原因 根本なんですよね だからそれで 禁酒法って言うのは お酒を飲むのを禁止できない それは何の迷惑もかけてないから 迷惑がかからないように飲めばいいんだから 今タバコも若干そうなってますけども まぁ東京都の小池知事なんかがちょっと暴走しましてね 例えば区ごとに  ここの区では吸っちゃいけないとかいうのがあるんですよ それやっぱりちょっと行き過ぎですよね それから子供の 元々子供っていうのはですね まぁタバコを吸うの禁止されているんですけど 副流煙もダメだって言うのがあるわけです これはですね データは一切示されてないんですよ データが示されて やっぱりそれが データは そういうデータを示すために 国立研究所とか大学とか そういう所があるわけですから 特に国立研究所はですね  やっぱり法律に定めるやつの基本的なデータはですね 取らなきゃいけないですけど だいたいインチキが多いんですよ なんでインチキが多いかって言ったらですね 政治家かなんか頼んで ある団体が頼んでですね ちょっとあんた そういうデータを出してくれよって事になるんですね これでやっぱりまぁ 今の小池都知事が 環境大臣の時に問題が起きたのが ネクタイを外すと温度は28度でも仕事が出来るっていうの これは早稲田大学が計算したんだと思うんですが これなんかまぁ御用学者の御用計算なんですね どっちにでもデータが出てくるという結果で 依頼された人にいいように出すという こういう御用学者がやっぱりどうしても 今の日本にはゴロゴロしてるんですよね ですから まぁみんなが金が欲しい つまり学問的な興味より金が欲しいんだっていうね そういう時代になってしまってるわけです もう一つの問題はですね この多様化の時代のもう一つの問題は 間違いがあれば すぐ謝って訂正するっていうことが必要なんですよね どうしてかって言うと これはですね 今までの 単一社会と違うんですよ つまり それぞれの人が それぞれの価値観をもって議論したり 話したりするわけですから 当然人の話を聞いたら 自分が間違ってたなと思う チャンスは増えるんですよ あの 一様な社会って言うのはですね 社会に規範があって 大体の人がその社会をやるわけですからね ですから そのあれですね 意見はあまり変わらないんですけども 多様化の時代ってやっぱり 他人の意見を尊重して聞きますからね どうしても人間ですから そうだなぁ 俺も考えてみればそうだなぁって思うわけですよ その時に謝らないんですよね それで訂正しないって言うのが多いんですよ 僕は 必ず謝って訂正します それともう一つは僕は科学者ですからね 科学者って言うのは 新しい技術が出てきますから 新しい技術を求めてるわけですからね ですから学問は自ら 時代遅れになることを望むと言うんですけど これ難しく言ってですね 学問は自らが時代遅れになることを望む つまり昨日自分が言ったことは 昨日までの知識で正しいと思うことなんですよ 今日新しいことが分かって まぁ自分の意見を変えなきゃいけない つまり自分 昨日までの自分が時代遅れになる その時代遅れになることが 学問では大切なんだって言うのが 学問は自ら時代遅れになることを 望むという言い方なんですね ですから 多様化の時代ってのは二重にですね 自分の考えが誤ってることに気が付くんですよ 一つは他人の考えを聞く ともう一つはいろんな点で こう新しいことがわかりますから それで謝って訂正する ここでもう一つ問題はですね マスコミが悪いんですけど ネットもそうなんですが 訂正した人をね この批判する 叩くというのがあるんですね これは その人は本当にいつも正しい事言ってるのかと お釈迦様なのかと  いう風に言いたくなっちゃうような人もいるんですよ がんがん人の欠点を叩くと  あの時 あー言ってたじゃないか いやそりゃぁねぇ 人間ですから もちろんできるだけ訂正しないように 心がけるのはいいですけどね しかし人間には限界があるということで もう少し私は多様化の時代という限りは 多様化を尊重した方がいいんじゃないかと このように思います

「幸福」の「構造」1:幸福は学問 幸福には学問がある 心理学、宗教などと生物などが必要 断片はあるけれど体系化されていない その意味で教育と似ている 本来は学校で習うものだ (武田邦彦)


 

今日はですね 幸福 幸福論っていうか幸福ですね 幸福についての 幸福の構造論っていうのを 少しやってみたいと思いますが 一番このポイントはですね 幸福っていうのは 幸福学というのがあってもいいぐらい 非常に幅が広くて深い学問なんですね ところが幸福っていうのは なにかですね 思いつきのように思われててですね 例えば小学校中学校高等学校大学の講義を受けたら その中から人生を幸福に生きる方法っていうのは 方法とか考え方ですね それから幸福とは一体なにかとか そういうことが 自然に湧いてくるように まぁ思っていてですね 学校教育もそういうのが そういうことがあって 幸福学とか幸福の時間ってないんですよね 国語とか算数とかそういう事を勉強すると 幸福というのが自動的に思い浮かんでくる という風な構造になっておりましてね しかし 人生において幸福に人生を送るってことは ものすごく大切って言うか  もうほとんど人生そのものみたいなものな訳ですね したがって幸福は学問であるということなんですね それで それは心理学とか宗教とか お釈迦様がこう話されたとか それから心理学で このように考えられるって言うことを勉強してもですね 幸福には到達しないわけですね 幸福には到達するには生物学も入りますし まぁもちろん哲学とかそういうのは全然いるんですけども 科学的な考え方も非常に大切なんですね 総合的な判断が必要である まぁ法律なんかも大切ですし 医学はもちろん大切ですよね 病気したらダメですから だからその意味では 幸福というのが誤解されていてですね なんかあの人に聞いたら幸福になれるとか そういう感じの捉え方をされてるわけですよ これが多くの人を悩ませている訳です 特に人間関係なんかはですね 学問的知識があると 物凄く人間関係を 回避 トラブルを回避できるわけですね 結婚の問題もそうで 昨日ちょっと結婚の問題を言ったんですけど そういった問題もそうですし 家庭という問題もそうですね 歴史学も必要だし 非常に広く必要なんですね 日本学というのも必要ですね まぁ日本学というのも本当は必要なんですよね ですから 今の学校教育で国語算数理科社会 英語はいらないと思いますが かえって昔のように 美術とか音楽とか そういうものの方が歴史とかね その方が人間にとっては 必要な学問かもしれませんね その意味で とんでもなく難しい まぁ数学もですね まぁせいぜい どんなに必要でも 私は2次方程式ぐらいまで まぁ組み合わせなんかもあんまりいらないと いう風に私は思うんですね 数学の先生はそれ言うともの凄く怒るんですよ 怒りっぽいんですよね 数学の先生って あの数学はそんなに難しいとこまで やんなくていいんじゃないですかって言うと もの凄く怒るんですよ それは物理なんか 私が専門物理ですけど 物理もちょっと難しいとこまでやりすぎてるんですよね 化学もそうですね 何と何と反応したら何になるなんてことは 生活に必要な酸アルカリ反応とか 酸化還元反応とか そういった基礎的な反応ですね それから有機化学の本当の基本ですね それを教えるのはいいけど 有機化学でも何と何と反応させたら 何になるかなんてことは必要ないんですよね 電気陰性度とか 立体的な問題なんていうのを しっかり教えるって言う必要があるんじゃないか その意味では やっぱり教育も全部やり替えてですね まぁ皆が幸福とか健康とか法律的なトラブルとか そういうのに 巻き込まれないようなですね そういう学校教育って言うのが 必要なんじゃないかと思うんですが まぁここではそれを言っても あんまり想像的にやってくれる人がいないんで まあ断片はあるけれども 体系化されてないこの問題について 少し取り組もうかなと思っております つまりこれに似てるのが 実は教育の方法なんですね 教育の方法も 私は子供をこういう風に教育したいになんて言う 本なんかがすごく出回ってるんですけど いやまぁそれはね みんなには参考になんないんですよ 私はこうして金持ちになりましたとか 私はこうして幸福な人生送りました って言う一例を聞いてもですね やはりそれは 本筋じゃないんですね やっぱり教育学も 教育学としての基礎がいるわけです 私もあの随分大学教育って言うのを 文部省なんかと一緒にやってきましたが その過程で ある時にですね 東工大の総長がですね これは立派なこと言われました 私はもうこの席を帰りたいと なんでかって言ったら つまり退席したいと 会合ですね ちゃんとした会合だったのに退席したいと なぜならば 教育の議論になるともう 自分の経験とか そう言うのが出てきて困ると やっぱりもう少し基礎的で こういったちゃんとした識者がいるんだったら 基礎的でしっかりした議論をしたいと まぁそこでは教育の専門家がおられるのにも関わらずですね やはりそういう体験論みたいのが出てくるんですよ それで体験論と言うのはやっぱり それはそういうこともあり得るという事であってですね 決して学問的な あれじゃない体験論みたいなものでですね もし飛行機を作って飛ばしたら必ず落ちます そりゃあ 私の乗った飛行機はこうだったとか 言うんじゃなくて やっぱり綿密にデータを積み上げて それ論理的に展開してってことがないとダメな訳ですね その意味で教育と言うもの 教育学ってのはあるんですけどね まぁよく私なんかも教生って言ってですね 高等学校までの先生の教育を受けて そういう免許を持ってるんですけども まぁそういうところで習う教育原理だとか そういうものもですね 非常に浅いんですね まぁ30年前の教育学をやってるとかね たまにはこう フランスのルソーの辺りの 教育学がまだ幅を利かせてると言うのは そんな感じなんですね やっぱり本来はですね 今日は 幸福学として 学問としてたてて それを学問的に構造をきちっとすると だからこの前 私 まぁ私 幸せ砂時計っていうのを ネットでやってるわけですが 幸せ砂時計でもですね みんなの幸福は 断片的な質問で成立してると思ってるわけですね それが一番の問題なんです そこで例えば人によってはですね 幸福論という 世界の名著に入っている幸福論を読んだら 自分が幸福になるのに何か役立つんじゃないかとか 宗教家の話とか 心理学の話 心理学者なんかも そういうアプローチというか  そういう説明をしてる人がいるんですね 心理学を学べば幸福になる いやそんな事ないですね  心理学は人の心理を明らかにするわけで 心理学は幸福に至る 一つの道筋を示してくれる学問として必要ですが しかし幸福学問とは違うわけですね ですからまぁ ここでは少し しあわせ砂時計の理論版ですね まぁこの しあわせ砂時計でも少しずつ 幸福っていうのは 構造持ってって学問なんだということを 幸せ砂時計に参加してる方にはですね 示していきたいという風に思うんですね そのために今日は概論なんですけども 幸福は学問である そして 次にそういう事に触れようと思ってるんですけども 幸福がですね ヨーロッパの幸福論というのが 主流を成しているって言うとこに 日本人がまた辛いところがあるんですね ヨーロッパの幸福論と 日本の幸福論は全く違うんです それは社会の構造が違うからですね それから言葉も日本語と外国語と違いますし 社会構造そのものが違うわけですから そういう中で外国 特にヨーロッパのですね 幸福学というのを勉強してもですね それはまぁ混乱をもたらすだけだと言ったら ちょっと言い過ぎかもしれませんが そう言ってもいいぐらいなんですね むしろ混乱をもたらす 従って 目の前の人間関係とか 家庭の中の離婚の問題とか 自分の仕事の悩みとか そういうのは全く解決してくれないんですね やっぱり学問というのは 具体的に解決するためにあるわけですね 飛行機を飛ばそうと思ったら 操縦 飛行機の機体からですね 材料から破壊しちゃいけませんからね 上空で 全てのものが学問的に 高度に仕上がってないと 飛行機は飛ばないんですね それと同じように 幸福って言うのは もう飛行機よりか 更に難しいぐらいですから 幸福な人生を送るっていうことはですね 幸福の学問をしっかり基礎から勉強すると そういう意味じゃ先ほどですね 小学校中学校高等学校って言いましたが そこでは あるいは今よりかは少なくていいんですが 国語数学理科社会って言うのを 学ぶ必要があるかもしませんね だけども生涯学習という点では 幸福学とか健康学とかですね それからなんて言うかな 法律って言うか 法律じゃないですね トラブル学って言うか その世の中の人間関係のトラブルを どう処理するかとかですね 正義学?とかですね そういった 国語算数理科社会の分類とは違うですね 学問っていうのを 今後日本ででもいいですけども 作っていく必要が あるんではないかという風に思います (2021年11月12日 ヒバリクラブ)

米ロのどちらを信じるか (武田邦彦先生)

本日の収穫(1181文字) では続いては 視聴者の方からの質問ということです 米ロのどちらを信じるかということです 前回はロシアとウクライナについてのご解説 とても勉強になりました 今回はロシアに若干の利があると言いますが 日本もロシアに多少恩を売っておく方が 良いのかもというの...